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名古屋地方裁判所 昭和50年(ワ)528号 判決 1980年6月25日

原告

長田ゆみ

外二名

原告ら訴訟代理人

平田省三

被告

社団法人日本海員掖済会

右代表者理事

乾豊彦

右訴訟代理人

後藤昭樹

外二名

主文

一、原告らの請求を棄却する。

二、訴訟費用は、原告らの負担とする。

事実

第一  申立

(原告ら)

一  被告は原告長田ゆみに対し金四、一〇五万〇、三二八円、原告長田豊、同長田早苗に対し金五五〇万円及び右各金員に対する昭和五〇年三月二八日から完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

二  訴訟費用は被告の負担とする。

との判決並びに仮執行の宣言を求めた。

(被告)

主文第一、二項と同旨の判決を求めた。

第二  主張

(原告らの主張)<省略>

(被告の主張)

一  請求原因に対する認否<省略>

二  原告ゆみの出産から退院に至るまでの臨床経過

1 原告早苗は、昭和一三年三月六日生まれの女性であるが、過去五回妊娠し、うち四回は流産、一回は分娩の既応がある。同原告は、昭和四五年七月一五日より六日間を最終月経として妊娠したが、同年一〇月二〇日(妊娠一四週)より習慣性流産のため被告病院に入院した。被告病院の担当医産婦人科浅井医師は、同原告に対し、流産予防のため、注射・投薬・安静保持の加療をするほか、同月二七日腰椎麻酔を施して頸管縫縮術を行つた。右の処置の結果、流産の危険はなくなつたので、同原告は同年一一月七日退院した。

2 原告早苗は、昭和四六年一月一二日(妊娠二六週)の診察で、双胎の疑ありと診断された。その後、同年二月三日午後八時頃、同原告は破水感があることを訴えて来院したので、診察の結果、被告病院に再入院させることにした。このため、浅井医師は、即時、破水による子宮内感染を予防するため抗生物質(クロロマイセチン、一グラム)を投与した。さらに翌四日には羊水漏出が激しいため、やむをえず胎児を娩出させることにし、デリバリン六錠・アトニン0.5単位(陣痛促進剤)を投与して陣痛の誘発を図つた。その結果、同日午後三時頃から陣痛が始まり、同日午後一一時三二分第一児を娩出(第一頭位)、同時三六分第二児を娩出(第二骨盤位)させることを得た。二児とも女児であつた。

3 原告ゆみの出産予定日は昭和四六年四月二一日であつたが、原告早苗の前期破水のため同年二月四日午後一一時三二分、双胎児の第一子として第一頭位にて娩出されたもので、在胎週数は二九週二日(正常は三八ないし四二週)、仮死はなく生下時の体重は一、三〇〇グラムであつた。同人の娩出時の状態は、アプガールスコア五点で、四肢にチアノーゼが認められ、元気はなく、心搏数も一〇〇以下であつた。このため、直ちに保育器に収容し、同器内の状態を酸素毎分六リットル・温度三二度・湿度八〇パーセントにて経過観察を行つた。第二子の状態も原告ゆみとほぼ同様で同一保育器に収容した。

4 原告ゆみの保育及び治療の経過は、次のとおりである。

(一) 二月五日保育器内の状態は酸素毎分四リットル(担当医が一般的指示として毎分六リットル以下を指示したが、回診時等適宜浅井医師によつて具体的流量が指示された。看護婦は右具体的指示に従つて流量を調整した。以下この具体的流量を示す。)温度三二度・湿度八〇パーセントとして、原告ゆみの一般状態を観察したが良化しなかつた(なお、第二子は、同日午後一〇時頃、チアノーゼ強く呼吸停止状態となり、心マッサージを繰り返すも、午後一一時四〇分頃心停止して死亡した)。

(二) 二月七日保育器内の状態は酸素毎分四リットル・温度三〇度。原告ゆみに対しカテーテルにより栄養補給(五パーセントブドウ糖液二ミリリットル)を開始した(四時間毎)。

(三) 二月八日保育器内の状態は酸素毎分二リットル・温度三二度・湿度八〇パーセント・栄養(五パーセントブドウ糖液三ミリリットル)を四時間毎に補給。チアノーゼの有無により酸素流量を加減した。

(四) 二月九日保育器内の状態は酸素毎分二リットル・温度三二度・湿度八〇パーセント。チアノーゼはなく一般状態良好。五パーセントブドウ糖液を午前中三ミリリットル宛、午後は四ミリリットル宛を三時間毎に投与した。

(五) 二月一一日保育器内の酸素流量を毎分一リットルに減少せしめた。

(六) 二月一二日保育器内の酸素流量が毎分一リットルであつたのを同日これを中止することができた。同日以降体温がときどきであるが三五度(これ以下であると生存に不適当)を超えるようになつた。なお、同日以降一週間に亘つて、マクロビン(蛋白同化ホルモン)、ポポンS(総合ビタミン剤)、水などの栄養補給を施している。

(七) 二月二〇日体重が一、〇〇〇グラムまで減少したが、同日より徐々に体重上昇傾向を示すようになつた。体温はあいかわらず三五度以下を示し、チアノーゼはみられないが、予後不定の状態であつた。

(八) 三月一五日体重はようやく生下時体重にまで復帰(一、三〇〇グラム)した。しかし、低体温状態は依然として続いた。

(九) 三月二一日この頃より血便の排出があつたので、浅井医師は、薪生児腸炎を疑い、抗生物質(リンコシン三〇ミリグラム宛)を同月二二日から同月二四日まで投与した。なお二一日血液検査を行つたところ、強度の貧血症状を認めたので、輪血を考慮したが、未熟児のため当時の体力からみて輪血施術に耐えられないこと、依然として低体温状態が続いているので、保育器外へ出せば保温が維持出来ないこと、未熟児のため輪血の技術自体が難しいことなどの理由から輪血を断念し、経過観察を続けることとした。

(一〇) 四月二日一般状態は良好であつたが、貧血状態が著しくなつたので、浅井医師は、原告早苗と話合い、これ以上悪化するようならば輪血施術を行わざるをえない旨を告げたが、前記の理由で輪血をためらい、鉄剤(造血剤)を投与し、依然として経過観察を続けることにした。

(一一) 四月九日以降四月一四日鼻汁漏出があり、抗生物質の投写がなされた。

(一二) 四月二八日体重がようやく二、三二〇グラムとなつたので原告ゆみを保育器から出した。そこで、浅井医師は、直ちに眼科に対して眼底検査を依頼したが、眼科の新美医師は名古屋大学医学部に在籍しながら、毎週一回木曜日に被告病院において診察を行つており、たまたま翌二九日(木)が祭日で休診日に当たつていたので、眼底検査は次週の木曜日に持ち越した。

(一三) 五月六日新美医師により眼底検査を施行したところ、本症に罹患しており、右眼はオーエンスの分類による活動期の第三期ないし第四期、左眼は同第三期と診断され、処置として光凝固法もしくはステロイド投与を採るべき旨の指示がなされた。このため浅井医師は、直ちに原告長田豊、同長田早苗らに対し、右措置をとりうる名鉄病院を紹介した。

(一四) 五月八日名鉄病院において治療を受けるため、原告ゆみは退院した。

原告ゆみは、同日名鉄病院眼科において診察を受けたところ、病名は未熟児網膜症、同症の進行程度は右眼が第四期、左眼が第三期ないし第四期と診断された。

(一五) 五月一〇日名鉄病院に入院した。

(一六) 五月一四日名鉄病院で、両眼に対して光凝固手術(右眼二三発、左眼四〇発)を受けた。

(一七) 五月二〇日名鉄病院を退院した。<以下、事実省略>

理由

第一当事者

原告ゆみは原告豊及び原告早苗の次女として昭和四六年二月四日出生したものであり、被告は名古屋市中川区において総合病院である被告病院を経営し、小児科医、産婦人科医、眼科医等を雇傭して医療行為にあたらせている社団法人であることは、当事者間に争いがない。

第二原告ゆみの臨床経過

<証拠>によれば、原告ゆみの出生状況とその後の臨床経過は、被告主張の「二 原告ゆみの出産から退院に至るまでの臨床経過」のとおりであることが認められる(但し、五月六日における新美医師による診断結果のうち本症の進行程度に関する部分を除く。)。そして、証人新美勝彦の証言によれば、昭和四六年五月六日新美医師による眼底検査の結果、原告ゆみの本症の進行程度は、右眼はオーエンス活動期第四期の初め、左眼は第三期から第四期へ入る過渡期であると診断されたことが認められる。また、証人田辺吉彦の証言によれば、原告ゆみは、右のように名鉄病院において光凝固手術を受けたが、効果はなく、両眼とも失明するに至つたことが認められる。

以上認定の事実によれば、原告ゆみは、昭和四六年二月四日被告病院産婦人科浅井医師の介助により、双胎子の第一子として出生したもので、在胎週数は二九週二日、生下時体重一、三〇〇グラムであつたこと、出生直後から保育器に収容され、それ以来浅井医師の保育、医療を受け、四月二八日保育器から出され、五月六日被告病院眼科担当の非常勤新美医師により、眼底検査が実施されたこと、その診断結果によれば、既に本症に罹患しており、右眼オーエンスの分類による活動期第四期の初め、左眼は、同第三期から第四期へ入る過渡期と診断され、処置として、光凝固法もしくはステロイド投与を採るべき旨新美医師から指示されたこと、このため、浅井医師は、直ちに、原告長田豊、同長田早苗に対し、名鉄病院を紹介し、原告ゆみは、五月八日同病院で眼底検査を受けたが、その診断結果は、新美医師の所見とほぼ同様であつたこと、五月一〇日原告ゆみは、名鉄病院に入院し、同月一四日同病院で両眼に光凝固手術を受けたが、奏功せず、両眼共に失明するに至つたこと、以上の事実が明らかである。

第三原告らと被告の法律関係

以上の事実からすれば、昭和四六年二月四日原告ゆみ出生の日に、その両親である原告長田豊、同長田早苗及び右両名を法定代理人とする原告ゆみと被告との間に、被告病院において、未熟児である原告ゆみを保育医療するという事務処理を目的とする準委任契約が成立したと推認され、浅井医師らは、被告の履行補助者として、原告ゆみの保育医療にあたつたものと認められる。

第四被告の責任

原告らは、原告ゆみの両眼失明は、被告病院の産婦人科、眼科等の各担当医が一体となつて協力してなすべき原告ゆみに対する全身管理を怠り、保育器内にある原告ゆみに漫然酸素の使用をなし、また、ステロイドホルモン投与等の治療をなさず、加えて、当然なさるべき定期的眼底検査の実施を怠り、そのため、光凝固手術の適期を徒過したためである旨主張するところ、原告ゆみの主たる担当医は産婦人科浅井医師であり、眼底検査をしたのは、眼科の新美医師であることは、前記のとおりであるから、右各担当医につき、被告病院の履行補助者としての、原告ゆみに対する医療行為に原告主張のとおりの過失があつたか否かを以下に審究する。

一医師の過失の判断基準

医師は、人の生命と健康にかかわる医療行為に携わるのであるから、医療の専門家として、高度の臨床医学の知識に基づき、自己のなしうる最善を尽して患者の生命と健康を守るべき義務があり、この義務に違反したことにより患者の生命または健康を害する結果を生じたときは、当該医師には法律上の過失があつたものといわざるをえない。

医療行為、臨床医学の実残としての性質を有するものであるから、医師は、まず、少なくとも当該医療行為のなされる当時における臨床医学の水準的知識に従つて医療行為を実施しなければならない。これが講学上いわゆる医療水準と呼ばれるものである。

これを詳論すれば、次のとおりである。

臨床医学は日々進歩して止まないものであり、その知識の体系は確固不動のものではなく、特に先進的部分においては、常に病理現象及びその治療に関する新たな仮説が生成発展しているが、このような仮説は、まづ医学界に学術的課題として提起され、基礎医学的にまたは臨床医学的に研究、討論の対象とされ、その中で、数多くの追試が成功し、科学的な検証に耐ええたものは、学界レベルで一応正当なものとして認容されるに至り、これが、いわゆる学問としての医学水準を形成する。右のようにして形成された医学水準につき、これを医療の実践として普遍化するために、あるいは、普通化しうるや否やを知るために、さらに多くの技術や施設の改善、経験的研究の積み重ねにより、臨床専門医のレベルで、その実際適用の水準として、ほぼ定着するに至つたものが、いわゆる医療水準と呼ばれるものである。従つて、臨床医としての医師の医療行為に過失ありや否やは、当時の医療水準に照らして判断さるべきことになる。

なお、現在の臨床医学は専門分化が著しく、一人の医師に臨床医学の全分野における水準的知識の保持を期待することは不可能であり、自己の専門分野ないしはその隣接分野については高度の医学知識を有しても、他の分野については殆ど水準的知識を有していないのが実状である。従つて、このような医師に対しては、原則として、自己の専門分野ないしはその隣接分野における医療水準に従つて医療行為を実施することを期待しうるにとどまるというべきである。

これを要するに、すべての医師は、自己の専門分野ないしはその隣接分野においては、その分野における医療水準に従つて医療行為を実施する義務を負うわけであるが、具体的事案における特定医師の医療行為に対する過失判断基準としての医療水準は、当該医療行為のなされた時期、当該医師の置かれた社会的、地理的その他の具体的環境等諸般の事情を考慮し、具体的に判断されなければならない。

二本症の発生原因に関する通説的見解

<証拠>を総合すれば、次の事実が認められる。

未熟児の網膜血管は、胎生四カ月以降に硝子体血管より網膜内に血管が発達し、胎生八カ月においては、網膜鼻側の血管は周辺まで発達しているが、耳側では未だ鋸歯状縁にまで発育するに至らず、従つて、在胎期間三〇週以下の未熟児は生後胎外において発育することになるが、この網膜血管は極めて酸素に敏感で、収縮し閉塞しやすい。すなわち、未熟な網膜血管が、動脈血の酸素分圧の上昇により強い収縮をおこし、遂には不可逆性の血管閉塞をきたすものである。その後に環境酸素濃度が低下し、酸素分圧が平常に戻ると閉塞血管流城の組織は極度の酸素欠乏状態に陥り、これが異常刺激となつて網膜静脈のうつ血と毛細血管の新生及び増殖をもたらす。この新生血管は透過性が強いため、血漿成分の管外漏出がおこり、この滲出性病変に続いて増殖性変化をおこし、遂には瘢痕性収縮により網膜に破壊的変化をきたすものと考えられている。

従つて、本症の発生原因としては、児の未熟性すなわち網膜の未熟性を素因とし、酸素の投与が誘因となるものと考えられ、現在までこれを否定する見解は存在しない。

一般に、生下時体重の低いものほど、また、在胎期間の短いものほど、本症発生の危険が大きい。また、単胎児よりも多胎児の方が発症率が高い。

しかしながら、全く酸素投与が行われていない児や、ごく短期間だけ酸素投与を受けた児にも本症の発生例があることなどから、酸素以外の因子、たとえば、未熟児貧血、光刺激、妊婦の全身状態、胎盤異常などを原因として本症が発生する可能性もなお否定されていない。また、本症の発生機序そのものについても、未解明の点が残されている。

三原告ゆみに対する酸素投与につき担当医の過失の存否

原告ゆみは、出生日である昭和四六年二月四日から同月一二日までの問被告病院において酸素の投与を受けたことは、原告ゆみの臨床経過で詳述したとおりである。ところで、<証拠>によれば、未熟児に対する酸素投与は、チアノーゼのある場合又は呼吸困難の場合に限定して実施さるべきこと、保育器内の酸素濃度は原則として三五パーセントないし四〇パーセント以下に保つこと、そのため酸素濃度計等により濃度を測定する必要があること、症状が改善されたら、流量を少量にするか、若しくは、酸素投与を中止すること、以上が医学上の定説となつていることが認められるところ、前述のように、原告ゆみは、生下時体重一、三〇〇グラム、在胎週数二九週二日の極小未熟児であり、双生児で、四肢にチアノーゼが認められ、全身状態も不良(第二子は出生翌日に死亡)であつた。そのため、浅井医師は、原告ゆみのチアノーゼ状態を見ながらその流量を調節しつつ酸素投与を実施したというのであるから、酸素投与の必要性は、これを肯認しうる。

もつとも、被告病院には後記のとおり濃度計の設備はなかつたから、流量の調節が正確に行われたか否か明らかではないが、酸素投与期間は出生日を入れると九日間という、比較的短期間であり、酸素投与量については、同月四日は毎分六リットル(出生時刻は同日午後一一時三二分)、同月五日から七日までは毎分四リットル、同月八日から一〇日までは毎分二リットル、同月一一日、一二日は毎分一リットルというように漸減せしめており、証人浅井保正の証言によれば、酸素毎分六リットルの場合における保育器内の酸素濃度は四〇パーセント強、四リットルの場合には四〇パーセント未満、二リットルの場合には二〇数パーセント程度であることが認められ、チアノーゼ症状が全く消失した後は流量を少量に調節し、数日にして酸素投与を中止しているものであるから、浅井医師の酸素投与についての措置は、医学上の定説に従つたものと認められ、同医師に酸素投与につき過失ありとは認められない。

原告らは、担当医師が原告ゆみに対し、不必要、不適切な酸素投与をなしたため本症が発生したものであり、右酸素投与には過失がある、と主張するのであるが、右主張は前述の理由により採用できない。

四眼底検査義務と、本症の有効な治療方法との関係

先に認定した原告ゆみの臨床経過からすれば、被告病院において、原告ゆみに対する眼底検査が実施されたのは、昭和四六年五月六日(生後九一日目)であり、原告主張の定期的眼底検査を原告ゆみに施行していなかつたことは明らかである。

ところで、本症発見のためになされる眼底検査実施義務が成立するためには、本症に対する有効な治療法の存在を必要とする。すなわち、医療の場面においては、いかに眼底検査を実施しても、これに続く有効な治療法が存在しなければ、その眼底検査は単なる検査に終るのみで何らの意味をもたないからである。病理研究や治療法の開発研究のためのみに行う眼底検査は法的注意義務に基づくものとはいえない道理である。

従つて、眼底検査義務の存否の判断に先だち、本症に対する有効な治療方法の存否について検討することを要する。そこで、以下、ステロイドホルモンの投与と光凝固法の有効性について考える。

五ステロイドホルモンの投与の有効性

<証拠>を総合すれば、次の事実が認められる。

かつては、ステロイドホルモン(副腎皮質ホルモンと同義)の投与が本症の治療として有効であると考えられたことがあつたが、その後の追試により、本症の自然治癒率が極めて高いこと(七〇ないし八五パーセントともいう。)から、ステロイドホルモンの投与による効果と自然治癒との判別ができず、また、投与によつても本症の進行を阻止しえない例があるなど、その有効性は昭和四一年ごろから次第に否定的意見が出され、昭和四六、七年ごろには、否定的意見が大勢を占めるに至つた。そして、昭和四九年度厚生省研究班は「副腎皮質ホルモンの効果については、その全身に及ぼす影響も含めて否定的な意見が大多数であつた」と報告している。

従つて、現在においては、その有効性を積極的に認める所説は殆んどない。もつとも、最近においても、本症の初期症状に対してはステロイドホルモンを使用している研究者もないではないが、全身に及ぼす悪影響に比べて特に効果があるわけではないので、その利害得失を考えて一般にはステロイドホルモンの使用には消極的である。

ステロイドホルモン以外の薬物療法についても、ほぼ右と同様である。

他に右認定に反する証拠はない。

右の事実によれば、ステロイドホルモンの投与は、もともと本症の治療法として有効ではなかつたのであるから、原告ゆみ出生当時においても、ステロイドホルモン等の投与と結びついた意味での眼底検査義務は、存在しなかつたものといわざるをえない。

原告らは、被告病院担当医が原告ゆみに対し、ステロイドホルモンの投与をしなかつたことは、過失である趣旨の主張をするけれども、前記のとおりステロイドホルモンは本症に対する有効な治療法とは認められないのであるから、その不投与が担当医の過失を構成する道理はないというべきである。

六光凝固法の有効性

1  光凝固法の登場

<証拠>を総合すれば、次の事実が認められる。

光凝固法は、もともと太陽光線を凸レンズで集めて黒い紙の上に焦点を結ばせると紙が燃え出す原理を応用したいわゆる光のメスとして開発されたものである。クセノン光源を使用する光凝固装置は、わが国においても昭和四〇年ころから導入され、網膜剥離の治療(網膜裂孔閉鎖術)などに利用されてきた。

光凝固法を本症の治療に初めて応用したのは天理病院眼科の永田医師である。永田医師ら四名は、昭和四一年四月に同病院が開設されて以来、小児科未熟児室において総数四六名の未熟児を扱い、生存例三六名中三一名について眼科的管理を行つてきたが、そのうち生下時体重一、四〇〇グラム及び一、五〇〇グラムの特発性呼吸障害症候群の児二名にやむをえず行つた酸素供給中止後、次第に悪化する本症活動期病変を発見したので、従来光凝固法が成人のイールス氏病を始めとする多数の網膜血管病変に効果があるところから、同じく血管病変である本症にも効果があるのではないかと考え、限局性の網膜隆起部の血管から血管発芽が起こり、血管新生の成長が硝子体内へ進出し始めて増殖性網膜炎の初期像をとつてきた時点、すなわち自然寛解の望みがたいオーエンス活動期第三期の始まつたところで、昭和四二年三月及び五月に、各一例につきその網膜周辺部の限局性滲出性病変部と新生血管に対して全身麻酔下に光凝固を行い、その結果、著しい血管新生部はほぼ完全に凝固されて、破壊され、瘢痕化して手術は成功し、その後は視力障害の徴候は認められなかつたことを経験し、これを同年秋の第二一回臨床眼科学会に発表し、右学会において永田医師は、今後の方針として、未熟眼底を呈する未熟児には定期的な眼底検査を行つて本症の進行を監視し、活動期第二期に入ればまずステロイド療法を施行し、また、もし第三期に移行してゆく症例があれば、その進行状況を確かめたうえで、網膜剥離を起こす前に周辺部の滲出性病巣を新生血管とともに光凝固で破壊する手術を行うつもりである、と述べ、結語として、本症には自然寛解があり、光凝固施行の時期には問題があると思われるが、十分な眼底検査による経過観察により適当な時期を選んで行えば、重症の本症に対する有力な治療手段となる可能性がある、と述べた。

そして、右発表の内容は、昭和四三年四月発行の「臨床眼科」二二巻四号(甲第四二号証)に掲載された。

その後、永田医師は、同年一〇月発行の「眼科」一〇巻一〇号(甲第四三号証)において、天理病院における未熟児管理の実際を紹介するとともに、前記の光凝固治験二例を再度紹介し、光凝固実施の意義について言及し、本症の病理学的変化は「アシュトンの実験的研究により裏付けられたように、未熟な網膜において成育途上にある血管が酸素濃度の異常な上昇によつて内皮の変化を起こして閉塞し、これを再び正常な酸素濃度の環境にもどすことによつて血管末梢部に比較的な無酸素状態が起こり、その結果低酸素状態に陥つた網膜と正常な部位との境界にある網膜血管より過剰な血管増殖が生じ、これに線維性組織の形成を伴い、後にこれが更に硝子体中に増殖し、出血、網膜剥離などを起こすに至る」ことによるものと考えられるので、光凝固によつて新生血管とともに異常な網膜を破壊すれば、この部に至る網膜血管は血管の増殖傾向に対する刺激から解放され、増殖性変化に伴う悪循環が断ち切られる可能性がある、とその意義を述べ、また、光凝固の実施時期については、本症は自然治癒傾向が高く、治験例でも七五パーセントは第一期ないし第二期で自然寛解を起こして治癒し、その瘢痕は二度以下と考えられること、キンゼイらによれば、第三期でもその半数は自然に正常にまで回復することが認められていること、植村医師らの報告によれば、第二期で副腎皮質ホルモン療法を行つても眼底周辺に何らかの瘢痕を残すことが指摘されていることを考慮し、光凝固を実施した二例においては、たとえこの時点で自然寛解が起こつたと仮定しても放置すれば、おそらく三度の瘢痕を残すことが必至と考えられる程度の病変が認められ、かつ、これ以上本症が進行して網膜剥離が起こつた場合光凝固はおそらく不可能になるであろうと想像されたことから、本症が第三期に突入した時期に光凝固の実施を決意した、と述べ、さらに、光凝固自体の副作用については、発育途上の網膜にできた人工的瘢痕が今後の眼球の発育に影響を及ぼさないかどうかは、今後の経過観察にまつほかはない、としつつ、結論として、光凝固は施行の時期を充分に考慮して行えば、本症活動期の進行症例に有効な治療法となる可能性がある、と述べた。

その後、永田医師は、昭和四四年秋の第二三回臨床眼科学会において、前記二例の後に行つた四実施例を追加発表し、いずれも光凝固により病勢の進行を停止せしめることができたとし、本症は適切な適応と実施時期をあやまたずに光凝固を加えることによりほとんど確実に治癒しうるものであり、重症の瘢痕形成による失明や高度の弱視を未然に防止することができるとの確信を持つに至つた、と述べるとともに、その実施の適期はオーエンス第三期となつて網膜剥離を起こす直前をねらうべきである。と述べたが、同時に、光凝固を全国的な規模で実施するには、かなり困難な条件が存在し、これをいかに解決するかが本症治療の今後の問題点であると付言した。

右発表の内容は、昭和四五年五月発行の「臨床眼科」二四巻五号(甲第四四号証)に掲載されたが、これによれば追加四症例のうち他院紹介患児一例については、生後八四日目の初診時に、左眼は既に第五期の形で網膜全剥離をきたしていたが、右眼は第四期の所見を示したので、適応時期を失していると考えつつも、即日全麻下に光凝固を施こし、ステロイドホルモン等を投与して経過を観察したが、なお静脈うつ血は容易に消退せず、凝固斑の瘢痕化も遅かつたため、一二日後に再び光凝固を追加したところ、約二か月後には、右眼の眼底は瘢痕期二度ないし三度の所見を示し、一応視力も保たれているようである、というものであり、他の三例は、いずれも第三期に入つた時点で全麻下に両眼に光凝固を施行し、数日後には凝固斑の瘢痕化が始まり、約二週間後にはほぼ瘢痕化が完成し、静脈うつ血も消退し、施術後一ないし三か月後の所見によれば、網膜に特別の異常は認められなかつた、というものである。

永田医師は、昭和四五年一一月発行の「臨床眼科」二四巻一一号(甲第四五号証)において、同年六月末までに光凝固治療を行つた一二例を報告し、その一二例中、施行時期を失したもの(他院紹介のもの)を除き、第三期までに光凝固を施行した一〇例では全例網膜後極部にほとんど瘢痕を残さず治癒しているので、第三期のはじまりを光凝固の適期と考えていること及びそのための眼底検査方法の詳細を明らかにし、結論として、光凝固は現在本症の最も確実な治療法ということができる、と述べている。

ついで、同医師は、同年一一月発行の「今日の小児治療指針」(乙第一七号証)においても、適期に光凝固を行えば、本症の活動期病変は劇的に進行を停止し、一週間で瘢痕化が始まり、この瘢痕は網膜後極部の変化を伴わず、視力にも影響なく眼球の発育にも悪影響を与えず、失明児をなくすことができるようになつたので、小児科医、産科医、眼科医、麻酔医の緊密な協力体制、光凝固装置のある病院との連絡関係を確立する必要があることを指摘し、この頃から小児科医、産科医、眼科医達に光凝固法の採用を積極的に呼びかけ始めた。

また、永田医師は、昭和四六年秋の第二五回日本臨床眼科学会において、「未熟児網膜症の光凝固による治療(Ⅲ)」と題して、過去五年間に光凝固を行つた二五例を報告し、光凝固施行適期の判定規準及び実施後の網膜血管の発育について講演するとともに、今や未熟児網膜症発生の実態はほぼ明らかとなり、これに対する治療法も理論的には完成したので、今後はこの知識の普及と全国的規模での実行に努力すべきであると強調し、これは昭和四七年三月発行の「臨床眼科」二六巻三号(乙第七四号証)に掲載された。

2  光凝固法の追試状況

<証拠>を総合すれば、次の事実が認められる。

永田医師の提示した光凝固法とその成果は眼科医達の注目するところとなり、昭和四四年から昭和四六年頃にかけて全国各地のいくつかの病院でいつせいに追試が行われたが、主として原告ゆみ出生の昭和四六年二月当時までに行われた実施例をあげれば、おおむね次のとおりである。

(一) 名古屋市内にある名鉄病院の田辺吉彦医師及び池間昌男医師は、昭和四四年三月及び四月に各一例、一一月に二例、昭和四五年六月に二例、七月に三例、八月及び一〇月に各一例、一一月に六例、一二月に一例、昭和四六年二月及び三月に各一例、五月に二例、六月に一例の計二三例の光凝固を実施したが、オーエンス第三期までに行つた二〇例全例に著効を見、残るオーエンス第三ないし第四期から第五期の三例のうち一例は二度まで回復し、他の二例は四度ないし五度の瘢痕を残して無効であつた(甲第四六号証)。田辺医師らは、昭和四四年終り頃には光凝固法が有効であると考えるようになり、昭和四六年初めにはその有効性を確信するに至つた(甲第五五号証の二)。

(二) 名古屋大学医学部眼科においては、昭和四五年頃から光凝固法を実施していた。

(三) 九州大学医学部眼科の大島健司医師らは、昭和四五年一年間に二三例に対して光凝固を実施したが、そのうち二一例に著効を見、他の一例は不良、残る一例は片眼著効、他眼不良であつた(甲第六七号証)。

(四) 関西医科大学眼科の上原雅美医師らは、昭和四四年一月に一例、昭和四五年六月に三例、九月に一例に対して光凝固を実施したが、そのうちオーエンス第三期までに行つた二例は、一度の瘢痕で治癒し、他の二例は五度の瘢痕で失明、残る一例は片眼が二度の瘢痕で治癒、他眼が四度の瘢痕を残して無効であつた(甲第六六号証)。

(五) 上原医師らによる右追試結果は、昭和四五年秋の第二四回日本臨床眼科学会において発表されたが、その際、他院の斎藤医師は東独ツアイス社の光凝固機を用いて光凝固を行つたことを、また、丹羽医師も五人九眼の光凝固を行つたことをそれぞれ発言している(甲第六六号証)

(六) 大阪北逓病院眼科の浅山亮二医師らは、昭和四四年三月以降、五例に対して光凝固を実施したが、そのうち四例七眼は瘢痕一度で治癒し、一眼は乳頭変形となり、他の一例は術直後一回来院したのみで効果不明であつた(甲第六五号証)。

(七) 国立大村病院眼科の本多繁昭医師は、昭和四五年九月から昭和四六年五月までの間に出生した未熟児五例(うち三例は昭和四五年中に出生)に対して光凝固を実施し、本症の進行を停止治癒させた(乙第八〇号証)。

(八) 兵庫県立こども病院の田渕昭雄医師らは、昭和四五年五月五日より昭和四六年八月末までに同院未熟児室に収容された未熟児のうち一〇例に対して光凝固を実施したが、そのうち八例は本症の進行を阻止しえて満足すべき結果を得、他のオーエンス第四期を示した一例及び発症から急速な進行をみた一例は一回の手術によつてその進行を止めえなかつた(乙第八七号証)。

以上のほかにも昭和四六年二月頃までにいくつかの光凝固実施例のあつたことが窺われるけれども、このような永田医師以外の医師による治療経験は、昭和四五年秋の第二四回日本臨床眼科学会において前記上原医師らが発表したのを初めとし、文献としては眼科専門誌を中心として昭和四六年四月頃から発表され始めた。そして、これらの発表は、いずれも、光凝固法には明らかに本症の進行阻止効果が認められるとするものばかりであつた。

3  光凝固法の実施時期

<証拠>によれば、次の事実が認められる。

光凝固法によつて本症を治療する場合には、その実施時期の選択が極めて重要な意義を有するが、この点に関する各術者の見解をみてみると、いずれも症状が更に進行する徴候の見られる場合に限つて実施すべきであるとする点では一致しながらも、その実施時期については微妙な相異を見せ、永田医師は、オーエンス活動期第三期のはじまり(昭和四三年報告)、第二期から第三期に移行した時期(昭和四三年報告)、第三期で網膜剥離の起こる直前(昭和四五年報告)、第二期の終り(昭和四七年報告)、第二期の終りから第三期への移行期(昭和五〇年報告)と変遷し、上原医師らはオーエンス第二期から第三期に移行した時期(昭和四五年学会報告及び昭和四六年四月発行「臨床眼科」二五巻四号掲載)、大島医師らはオーエンス第三期の初期(昭和四六年九月報告)、田辺医師らはオーエンス第三期の初期までに(昭和四七年報告)、田渕医師らはオーエンス第二期の後期(昭和四七年報告)、本多医師は新生血管の硝子体への進入直前(リースらの病気分類による第二期から第三期への移行期。昭和四七年報告)、浅山医師らはオーエンス第三期までに(昭和四八年報告)、幸塚医師らは第二期(オーエンスの病期分類によるものと思われる。昭和五〇年報告)、瀬戸川医師らはオーエンス第三期の初期(昭和五〇年報告)、馬嶋教授らは後記厚生省研究班の病期分類による第三期の中期(昭和五一年報告)をそれぞれ適期と述べている。そして、昭和五〇年三月に公表された厚生省研究班報告「未熟児網膜症の診断および治療基準に関する研究」(植村ら一二名担当)は、当時における本症の研究成果に立脚して一応の診断治療基準を定めたものであるが、それによると、本症をⅠ型とⅡ型とに大別したうえ、オーエンスの分類に変更を加えたあらたな病期分類を定め、光凝固法の実施時期はⅠ型では右病期分類による第三期、Ⅱ型では早期と定めている。

右のように各術者によつて光凝固法の実施適期は微妙な相異を示しているのであるが、いずれも自ら経験した有効な実施例に準拠している見解であるから、ある特定の時期に実施しなければ光凝固法は全く効果がないというべきではなく、おおむねオーエンス活動期第二期の後期頃から第三期の中期頃までは光凝固法が奏効する可能性は高く、右の諸見解はこのような有効帯において更に最適の時期はいつかを論じているものと理解される。そして、多くの見解はオーエンス第三期の初期を適期とするものであり、昭和四六年二月当時においても、術者の多くは永田論文の影響を受けつつほぼ同様の見解に立つて光凝固を実施していたのである。

4  光凝固法の有効性

<証拠>を総合すれば、次の事実が認められ、この認定を左右するに足りる証拠はない。

本症に対する治療法としての光凝固法については、その有効性が主張される反面、このような医的侵襲を発育過程にある未熟な網膜に加えることに対する長期的予後の面での危惧が表明されており、今日に至つても、なお右危惧が全く解消されてしまつたわけではない。

そして、本症の発生、治癒に関する統計的考察や臨床経過に関する研究の進展に伴い、最近においては、本症をⅠ型(症状が比較的ゆるやかに進行する型)とⅡ型(症状が急速に進行する型)に、又はⅠ型、Ⅱ型混合型(右Ⅰ型とⅡの症状を併有している型)に大別する傾向が見られるが、そのうち、Ⅰ型については、酸素投与に十分な注意が払われるならば、その殆どは、重症瘢痕例に至ることなく自然治癒することが判明してきたことから、Ⅰ型に対する光凝固治療はその多くが、不必要で、患児に前記危惧を担わせる不当な過剰治療となつているのではないかとの批判が強くなつてきている。また、Ⅱ型の症例はその発生頻度がⅠ型よりも極めて低いところから、Ⅱ型に対する光凝固治療の成績報告は少なく、有効例と無効例の報告が少数あるだけで、相当数の治療経験にもとづいて光凝固の時期、部位、方法、有効性の程度等につき本格的に論じた文献はまだ見当らず、Ⅱ型の本症に対する光凝固法の有効性の程度についての評価は、Ⅰ型に対するほどには固まつておらず、Ⅱ型の進行阻止がⅠ型ほど容易でないことを等しく認めている。

ところで、これらの危惧ないし疑問については、永田医師は、昭和五一年一一月発行の「日本眼科学会雑誌」八〇巻一号(乙第八六号証)及び同年一二月発行の産婦人科シリーズNo16「未熟(児)網膜症のすべて」(甲第五三号証)において、昭和五〇年末までに同医師の所属する天理病院において実施した光凝固治療例八七例についてこれを分析総合した研究結果を発表し、光凝固治療の適応とその限界を論じているが、その論旨の概略次のとおりである。

すなわち、本症は、臨床経過と予後の点からみて、ゆつくりと経過し、予後の比較的良好なⅠ型と、急速に進行して予後の極めて悪いⅡ型並びに両者の病態を併有する混合型の三種に類別されるところ、Ⅰ型の本症については、その大多数が自然治癒するので、厚生省研究班報告の分類による第三期中期まで進行してなお自然治癒徴候を示さないものには光凝固を行うという従来の適応基準では、放置しておいても軽症瘢痕を残すのみで自然治癒する症例にまで光凝固を施す結果となる危険性がある。しかし、反面、光凝固の時期を第三期後期まで遅らせていたのは、三度以上の重症瘢痕を残す可能性があり、少なくとも二度の瘢痕を残し、中等度以上の近視、乱視又は斜視に至る確率が高くなるので、光凝固の時期を第三期後期まで遅らせるのは疑問である。従つて、Ⅰ型においては、光凝固は第二期に適応されるべきでなく、少なくとも第三期中期まで病変の慎重な観察が必要である。また、治療後一年ないし九年の遠隔成績では、Ⅰ型に対する光凝固の瘢痕が視機能に悪影響を及ぼしているということはなく、網膜剥離などの後期合併症の関係では、光凝固瘢痕の方が自然治癒瘢痕よりも有利ではないかと考えられるいくつかの徴候を示している。

混合型の本症は、活動期第三期の初期までに光凝固治療を行えば、ほとんど一度の瘢痕で治癒し、弱視を残すことはない。このような例では、たとえ自然治癒しても必ず二度以上の瘢痕を残すので、視力保全のための光凝固絶対適応例といえる。

他方、Ⅱ型の本症は、光凝固治療を加えないで放置すると、まず絶対に失明する重症例であるが、このような症例は光凝固によつて必ずしも全例治癒するとは限らない。生下時体重が極端に小さく、在胎週数も短く、酸素投与日数が長びいている症例では全身状態が許せば保育器の中にいるときから眼底検査を試みて眼底所見の動向をしつかりと把握しておくことが最も大切である。初回の眼底検査は遅くとも生後三週目には行わなければならない。このような例ではヘイジィ・メディア(中間透光体の混濁)のため生後一ないし二週間は眼底が極めて見えにくいが、眼底がはつきり見えるようになつたときは、すでにⅡ型の特徴的所見が見られることが多いので、診断確定次第全身状態が許せば直ちに光凝固治療を開始した方がよい。Ⅱ型の本症には光凝固の絶対的適応があり、適期に徹底した治療を行えばその予後は決して悲観的なものではない。だが、患児の一般状態が悪く高濃度の酸素投与が極めて長期間行われ、網膜血管の退縮消失があまりにも著しい場合などには、光凝固によつて救い難い症例が出現する可能性が充分考えられ、ここに光凝固治療の明らかな限界が存在する、というのである。

また、馬嶋教授は、昭和五一年三月発行の「日本新生児学会雑誌」一二巻一号(乙第九二号証)において、昭和四七年六月以後は、厚生省研究班分類活動第三期の中期に至つてもなお進行の傾向が認められる場合には、まず、片眼のみ光凝固して様子を見、非凝固眼の病勢が更に進行して第三期の晩期に向かうようであれば、非凝固眼にも光凝固を実施することにしている旨述べている。

そして、現在までのところ、光凝固を実施したことにより合併症が起つたり、悪影響が現われたような事例は知られていない。もつとも、長期的な観点からは、眼球そのものの発育が阻害されないかとか、遠い将来には現在予想できないような合併症が発生するのではないかという危惧が全く払拭されたわけではないが、もとより現在のところは、このような危惧が現実化したとする実例報告は聞かれない。

このように、本症に対する光凝固治療については、批判や未だ解消されていない疑問が残されており、その評価も今日に至るも未だ完全に定まつたとはいい難い。

しかしながら、本症に対する光凝固治療について論じた文献はすべて、進行する本症に対する光凝固治療の進行阻止効果を認めており、前記の批判や疑念も、光凝固治療の適応症例の選別や治療時期の選択の範囲内での疑義または将来発生するか否か全く不確定な副作用に対する抽象的な危惧にとどまつており、本症に対する光疑固治療の有効性を全く否定する見解は見当らない。

そうすれば、現状においては、本症に対する治療法としては、光凝固法をもつて有効な治療法と認めざるをえない。

七昭和四六年二月当時における光凝固法に関する知見の普及程度

<証拠>を総合すれば、次の事実が認められ<る。>

原告ゆみ出生の昭和四六年二月当時においては、本症の治療法として光凝固法が存在することを示す情報としては、眼科関係では、永田医師の前記各学会発表及び前記各論文のほかは、昭和四五年秋の第二四回臨床眼科学会における上原医師らの前記発表があつた程度で、他の医師による追試結果等の文献的発表は未だなく、上原医師らの前記学会発表の内容が文献に掲載されたのはようやく昭和四六年四月発行の「臨床眼科」二五巻四号誌上においてであつた(甲第六六号証)。

そうすれば、昭和四六年二月当時における一般の眼科医の間では、本症に対する治療法として光凝固法が存在し、それが有効であるらしいことが次第に認識されつつある段階にあつたものと認められるが、その情報量に照らせば、なお右の程度の知見すらも有しない眼科医も少なからずいたものと推認される。

眼科関係では、昭和四三年七月発行の「新生児の脳と神経」(塚原)、昭和四五年二月発行の「小児外科内科」二巻二号(岩瀬ら)、同年七月発行の「小児科」一一巻七号(植村)、同年一二月発行の「日本新生児学会雑誌」六巻四号(植村)、などに光凝固法の存在を紹介する記事が見られる(甲第七号証、乙第八九、第五四、第六九号証)。また、総合医療誌である昭和四五年五月発行の「今日の治療指針」(甲第五九号証)にも本症の治療法の存在が示されている。

一方、産科関係では、昭和四六年二月当時においては、まだ光凝固法の存在を紹介した産科文献は極めて少なく、本件証拠として提出されたものとして、昭和四三年一一月発行の「産婦人科の実際」一七巻一一号(甲第八号証)において植村医師が「永田らにより光凝固法という新しい治療法も登場し、失明を防ぐ努力が続けられている。」と簡単に紹介されている程度であり、しかも、その有効性についてまでは言及されていない。しかしながら、未熟児の保育管理ないし本症の発生原因や病理については、昭和四六年二月当時までに発行された産科専門文献ないしその隣接の文献において相当詳しい記述(甲第一ないし第八号証、第二三号証等)がなされ、これらの中では必ず酸素供給による本症発生の危険について言及されており、本症の発生頻度につき説明し、定期的眼底検査の必要性が強調され、酸素濃度は四〇パーセント以下に保持すべきことが提唱されていたが、酸素濃度が四〇パーセント以下であつても本症の発生する場合があることを警告する文献も見られた。本症の進行経過については、オーエンスの分類によつてこれを説明している文献が多かつた。

右事実関係に徴すれば、昭和四六年二月当時における一般の産科医としては、光凝固法の存在及びその有効性については知見を有しないものが多数であり、このような知見を有する産科医はむしろ少数であつたものと推認される。但し、未熟児の保育管理ないし本症の発生原因や病理については前記程度の知見を現に有するか、さもなくば、これを有すべきであつたものというべきである。

八眼底検査の普及程度と眼底検査義務

本症に対する光凝固法の有効性が認められるならば、これと結びついた意味での眼底検査が必要となる、そこで、昭和四六年二月当時における眼底検査の普及程度について考察するに、<証拠>を総合すれば、次の事実が認められ、他にこれに反する証拠はない。

すでに昭和三〇年代から眼科専門誌のみならず小児科、産科の専門誌上においても、しばしば、本症の発生原因、病期分類、本症の初期症候発生時期(生後二週間ないし一か月の間)、定期的眼底検査の必要性とその方法、眼科、小児科、産科の協力体制の確立の必要性などが説かれ、特に植村医師による昭和四〇年以降の啓蒙活動が与えた影響は大きく、本症に対する各界の関心は大いに高揚され、全国的に各医療機関において未熟児の眼科的管理と眼底検査が次第に実施されるようになつた。しかし、光凝固法との結合性に基づく眼底検査の実施は、昭和四五年ころからであり、昭和四六年ころにおいては、これを実施している医療機関は、光凝固法を実施している病院ないし大学附属病院、国立病院等に限られており、しかも、その検査の実施態様は、出生直後からたとえば一週間毎というように定期的に検査をしている医療機関(名鉄病院では、生後五日から週一回、名古屋市立大学病院では生後二週間から週一回、いずれも昭和四五年ごろから未熟児病棟に暗室を作つて実施、他に天理よろず相談所病院、九州大学医学部附属病院等)がある反面、未熟児を保育器から取り出すことが可能となつた時点ではじめて眼底検査を実施している医療機関(名古屋大学医学部附属病院等)も少なくなかつた。

被告病院においても、昭和四五年ごろから、未熟児を保育器から取り出せる状態になつたとき、眼科外来診察室まで出向き、産科の依頼により眼科医(週一回来院する非常勤の嘱託医である新美医師)が眼底検査を実施する慣行となつており、現に原告ゆみの場合においても、保育器から取り出した後間もなく眼底検査を実施し、本症が発見されたので、直ちに光凝固治療を行うべく名鉄病院に原告ゆみを転医させた。

なお、光凝固法との結合性に基づく定期的眼底検査が、全国的に定着したのは昭和四七、八年以降である。以上の事実が認められる。

右の事実及び先に述べた昭和四六年二月当時における一般眼科医及び産婦人科医の光凝固法に対する知見の程度に照らすと、右各臨床医につき、光凝固法との結合性に基づく定期的眼底検査義務が、原告ゆみ出生当時における一般的医療水準を形成していたと認めることは極めて困難である。

しかし、具体的事案における特定医師の医療行為に対する過失判断基準としての医療水準は、当該医師の置かれた社会的地理的その他の具体的環境等諸般の事情を考慮し、具体的に判断さるべきことは、先に説示したとおりであるから、右見地に立つて以下判断する。

九担当医の過失の存否

1  担当医の知見程度

<証拠>によれば、次の事実が認められ、他にこれに反する証拠はない。

浅井医師は、昭和四一年三月名古屋大学医学部を卒業し、同年四月から一年間同医学部附属病院で実地研修を受け、昭和四二年三月同医学部産婦人科医局に入局、同年一一月国家試験に合格して医師の資格を取得したので、同月被告病院産婦人科医師となり、昭和四六年六月まで勤務したが、同年七月同大学医学部産婦人科教室の副手、昭和五〇年一一月には助手となつた経歴を有する。浅井医師は、昭和四六年二月当時すでに、(一)本症は酸素投与によつて発生するものであること、(二)本症防止のためには酸素濃度を四〇パーセント以下にするのがよいといわれていたこと、しかし、(三)酸素濃度が四〇パーセント以下であつても本症が発生することがあり、本症は酸素だけが原因とは限らないとする所説があること、(四)本症の病期分類としてオーエンスの分類があること、(五)本症が進行すればついには失明に至るものであること、(六)眼底検査は早期に実施すべきであること、(七)本症の治療法としてステロイド療法と光凝固法が存在すること、以上の(一)ないし(七)をいずれも知つており、光凝固法は、未熟児の身体に相当程度の負担を与えるものではあるが、右治療法は専門の眼科医師が適期に実施すれば、本症の進行を阻止する効力を有するものと理解していた。しかし、従来本症に罹患した未熟児を扱つた経験はなく、かつ光凝固手術の適期、その技法についての詳細は知らず、従つて眼底検査は、保育器から出せる状態になつたとき、眼科に依頼すればよいと考えていた。

また、昭和四六年二月当時被告病院において未熟児の眼底検査の任に当つていたのは週一回(木曜日の午後)来院する非常勤嘱託医新美勝彦医師であり、同医師は、名古屋大学医学部附属病院眼科医局に勤務し、同眼科において昭和四五年頃から未熟児の眼底検査を実施し、昭和四五年頃から本症に対する光凝固治療を実施してきた経験を有し、昭和四六年二月当時すでに本症に対する光凝固法の有効性を信じていた。

しかし、名古屋大学医学部附属病院における眼底検査は、定期的検査でなかつたことは、前記のとおりである。

2  被告病院における保育管理態勢

<証拠>によれば、次の事実が認められ<る。>

昭和四五、四六年当時における被告病院産婦人科の医師は医長と浅井医師の二名であり、同科のベット数は約二〇台、同科担当看護婦は約一〇名であつた。未熟児は従来他院へ転送していたが、昭和四五年から自院で出生した未熟児を産婦人科が主体となつて管理することになつた。当時未熟児を収容する保育器は二台あつたが、その一台は旧式であつたため、双生児の第一子である原告ゆみと第二子は他の新式の一台に一緒に収容された(第二子は出生の翌日死亡)。未熟児は産婦人科において管理し、特別の事由があるときは小児科の指示を仰いでいた。未熟児室はなかつたので、未熟児を収容した保育器はエアコンディションのきく産婦人科看護婦詰所に置かれていた。保育器内の酸素濃度を測定する濃度計はなく、動脈血酸素分圧の測定器もなかつた。未熟児を保育器から取り出した段階において、眼科に眼底検査を依頼し、その児を眼科外来診察室まで連れ出して暗室で眼底検査を受ける慣行となつていた。

被告病院眼科の医師は、常勤医一名と新美医師の二名であつた。新美医師は、名古屋大学医学部附属病院眼科医局に所属していたが、昭和四二年頃から前記のとおり毎週木曜日午後だけ被告病院眼科に出向いて診療に当たつていた非常勤嘱託医であつた。そして眼底検査実施の技術を有するのは、新美医師のみであり、同医師は被告病院に出勤した日に、同病院眼科の外来診察室内の暗室内で、反射鏡と電気スタンドを使つて、産科の依頼により保育器から取り出された児の眼底検査を行つていた。しかし、同眼科には、検査のための倒像検眼鏡やポンノスコープは、具備されていなかつた。

3 以上1、2に認定した事実に基づいて考えるに、被告病院は、総合病院とはいえ、さしたる規模のものではなく、未熟児の保育管理は、昭和四五年から始めて、当時は僅か一年間の実績しかなく、眼科医二名中眼底検査を実施できる医師は、非常勤の嘱託医である新美医師のみであり、眼底検査実施のための設備、器材も、整備されておらず、従つて、定期的眼底検査を実施し得る態勢(産科未熟児室に暗室を設置し、性能のすぐれた倒像検眼鏡を購入する等、この点は、後記説示のとおり)にあるとは、到底いえない状況であつたこと、浅井医師の光凝固法に対する認識程度及び、これと結合した早期眼底検査の必要性についての認識程度は、当時の一般産科医師の平均的知見をはるかに上廻つていたが、光凝固手術の適期についての認識や、適期に手術を行うための定期的眼底検査の必要性についての認識に欠けていたこと、加えて、新美医師の属する名古屋大学医学部附属病院でも定期的眼底検査を実施していなかつたこと、以上のような諸事情からして、被告病院においては、未熟児を保育器から取り出した後に、新美医師の来院日である木曜日後に、眼科外来診察室の暗室において、新美医師に依頼して眼底検査を実施する慣行となつていたこと、原告ゆみに対する眼底検査も、右慣行に従つて行われたこと、以上の事実が明らかであり、これら事実を総合して考えると、浅井医師及び新美医師の原告ゆみに対し、とつた前記一連の措置は、当時の被告病院における担当医として、要求される注意義務に従つた措置と認められ、過失ありと判断することは極めて困難である。

もつとも、浅井医師が、原告ゆみを漫然と理由なく、八三日間に亘り保育器に収容していたというのであれば、同医師は早期における眼底検査の必要性を認識していただけに、同医師につき、原告ゆみの保育管理に過失ありとの判断が可能となるから、以下、右の点について検討する。

4  原告ゆみの保育器収容継続期間についての浅井医師の過失の存否

(一) 先に認定したとおり、浅井医師は、昭和四六年四月二八日(生後八三日目)原告ゆみを保育器から取り出し、直ちに被告病院眼科に眼底検査を依頼したが、新美医師の来院日である翌二九日が祭日で休診日にあたつていたため、眼底検査は翌週の木曜日(五月六日)に持ちこされたのであり、<証拠>によれば、原告ゆみは、五月六日午後、被告病院眼科外来暗室において、新美医師の診断を受けたが、その診断結果は、前記のとおり、右眼は、オーエンス活動期第四期の初め、左眼は第三期から第四期へ入る過渡期であつた。そこで、新美医師は、即座に光凝固手術を行うべき旨を浅井医師に告げ、浅井医師と協議し、浅井医師は、直ちに原告豊、同早苗に連絡し、原告ゆみを転送の上光凝固手術を施行することについて承諾を得た。原告ゆみは、五月八日被告病院を退院し、浅井医師の紹介により、同日名鉄病院において、田辺医師の眼底検査を受けたところ、新美医師の診断とほぼ同一の診断結果であつた(但し、左眼については、五月六日には、新生血管の増殖だけであつたが、五月八日には、網膜剥離が見られた。)。田辺医師は、光凝固手術をしても、右眼は時期を失しているが、左眼は成功するかも知れないと考え、手術することに決定し、五月一〇日原告ゆみは名鉄病院に入院した。同日施行の田辺医師による眼底検査の結果は、右眼の剥離が少し進んでおり、左眼については、増殖組織が多少増加との所見であつた。そこで、田辺医師は麻酔医の依頼等の手術の準備をした後、五月一四日光凝固手術を施行したが、手術直前の眼底検査の結果は、五月一〇日のときと大差はなかつたが、手術は不成功に終つた。五月二七日再手術のため眼底検査したところ、原告ゆみの本症は最終段階まで進行していたため、再手術は中止された。

原告ゆみの本症が、Ⅰ型、Ⅱ型、混合型のいずれに属していたかの点は、明らかではない。

以上の事実が認められ、他に、これに反する証拠は存しない。

(二)  以上に認定した事実に基づいて考えるに、原告ゆみの右手術経過からすれば、もう少し早く保育器から原告ゆみを取り出し、眼底検査を受けたなら(新美医師の来院日は四月中は、一日、八日、一五日、二二日である)、原告ゆみの本症が前記三種類のいずれの型に属するにせよ、右眼、左眼共に、症状が光凝固手術の適期を過ぎないうちに本症が発見され、直ちに光凝固手術を受けたとすれば、失明を免れ得た蓋然性は相当高いと推認することができる。(<証拠>によれば、名古屋市立大学眼科馬嶋医師は、昭和四九年一〇月発行の「小児内科外科雑誌」において、同大学の臨床例からすると、大部分の本症は、生後一五日から五五日の間に発生していると述べていることが認められる)。

そこで、浅井医師が、四月二八日まで原告ゆみを保育器から取り出さなかつたことについての合理的理由の存否が検討されなければならない。

ところで、未熟児である原告ゆみを保育器から、いつ取り出すかは、原則として、担当産婦人科医である浅井医師の裁量的判断にゆだねらるべき性質のものであるが、もし、原告ゆみが明らかに、四月二八日よりも早い時期(四月一日、八日、一五日、二二日のいずれかの日)に保育器から取り出せる健康状態に回復していたと認められる場合には、浅井医師が四月二八日に至るまで原告ゆみを保育器から取り出さなかつたことは同医師の怠慢であり、そのため、原告ゆみの眼底検査の実施が五月六日まで故なく延期されたということになる。

但し、新美医師は、非常勤の嘱託医であること、新美医師の属する名古屋大学医学部附属病院でも、当時は、未熟児が保育器から取り出せる状態になつたとき、産科の依頼をまつて眼科医師に赴いて眼底検査を実施していたのであり、保育器内にある未熟児に定期的な眼底検査を施行していなかつたこと、被告病院においては、未熟児を保育器から取り出せる状態になつたとき、未熟児を新美医師の来院日に眼科外来診察室暗室において眼底検査を実施する慣行であつたこと、このような方法による眼底検査を実施している医療機関は、他に少なからずあつたことは、前記のとおりであり、加えて、被告病院における眼底検査実施のための設備、器材は、整備されていなかつたこと、これら事実に前記浅井医師の光凝固法に対する知見の程度を併せ考えると、浅井医師が、原告ゆみを保育器に収容した状態において、新美医師に依頼して、保育器のある産婦人科看護婦詰所まで出向いてもらい、同所を暗幕等を張つて、暗室となし、眼底検査を実施してもらうように要請する注意義務があつたと認めることは困難である。

もつとも、証人浅井保正、同新美勝彦の各証言中には、「当時、右のように新美医師が、産婦人科に出向いて、保育器の置かれている産婦人科看護婦詰所の窓に暗幕を張つて暗室にし、反射鏡と電気スタンドを使つて眼底検査を実施することは可能であつた」旨の証言部分が存するが、右は、定期的眼底検査実施の慣行の存在を前提とすれば、右のような方法も可能であると考えられる趣旨の証言であり、このような慣行の存しない当時においては、右証言部分だけから、右の方法による眼底検査実施の依頼義務を浅井医師に負わせるわけにはいかない。

(三) <証拠>によれば、次の事実が認められ<る。>

原告ゆみの出生から四月二八日に保育器から取り出されるまでの臨床経過は、先に認定したとおりであり、二月中の一般状態は極めて不良であつたが、体重についていえば、生下時一、三〇〇グラムであつたが、四月一五日には一、八三〇グラム、同月二一日には二、〇〇〇グラム、同月二二日には二、〇三〇グラム、同月二八日には二、三二〇グラムとなり、体重のみに関していえば、二、〇〇〇グラムをこえた四月二一日以後は保育器から取り出せる状態になつたといえる。

体温について言えば、出生後三月二二日ごろまで三五度以下の低体温の日が多かつたが、次第に上昇して、四月九日ごろ以降は、三七度前後となり、ほぼ正常体温を保持するようになつた。

しかし、三月二一日原告ゆみに血便が発見されたので、血液検査の結果、白血球八、〇〇〇、赤血球三〇六万、血色素五八パーセントで強度の貧血状態を示していた。また、浅井医師は、右血便に腸炎の疑いをもち、翌二二日から三日間リンコシン(抗生物質)を投与し、翌二三日には、便培養のうえ、細菌検査をしたが、異常なく、同月二五日に潜血反応検査(便中の血液の検査)を行つたところ、極少量の出血が判明したが、さしたる異常は認められなかつた。しかし、四月一日再度の血液検査で、貧血状態が更に進んでいることが判明した。そこで、浅井医師は、輪血を考えたが、未熟児のため輪血施術は無理と判断し、同月二日以降インクレミン鉄シロップ(造血鉄剤)投与による治療をなしたが同月一二日の血液検査では、好転を認めず、五月に入つて実施した血液検査では、貧血状態は、やや好転していた。

右のとおり、四月中原告ゆみは、強度の貧血状態で推移しており、右貧血症状は、呼吸困難になつたりする危篤症状ではないが、他病が発生した場合に、抵抗力が極めて弱いという危険性をもつ性質のものであつた。

そこで、浅井医師は、原告ゆみを保育器から取り出し、眼科外来診察室に連れ出すことによる外来患者からの細菌感染、合併症(脳性小児麻痺等)罹患という事態の発生を非常におそれ、大事をとり、四月二八日以前に原告ゆみを保育器から取り出すことをしなかつた(乙第三一号証によれば、原田医師の臨床結果によると昭和四二年から昭和四七年までの本症による失明者六〇例中精薄児三三例、脳性麻痺八例であつたことが認められる)。

(四)  以上に認定した事実について考えるに、浅井医師は、原告ゆみの三月二一日以降における強度の貧血状態が、四月中続いていることを重視し、その治療に当つたが、仲々好転せず、そのため、細菌感染等による合併症罹患という事態をおそれて、原告ゆみを四月二八日まで保育器から取り出すことができなかつたというのであるから、先に認定した原告ゆみは双生児の第一子で、在胎週数は二九週二日であり、生後健康状態は極めて不良であつたこと、第二子は、二月六日にチアノーゼ強く呼吸停止の状態で死亡していること、等を考え合わせると、浅井医師が四月二八日に至るまで原告ゆみを保育器から取り出さなかつた措置をもつて、明らかに医師としての裁量を誤つた過失があるとまで認めることは困難である。

5 浅井医師らの過失の存否の総合的判断

以上に詳論したところを再説して要約すれば、次のとおりである。すなわち、昭和四六年二月当時における光凝固手術は、文献的に見れば、眼科関係では、永田医師の前記臨床眼科学会における発表や、論文のほかは、昭和四五年秋の右学会における上原医師の追試結果があつた程度であり、他の医師の追試結果は、眼科専門誌を中心に同年四月ごろから発表され始めたこと、従つて、光凝固手術が本症に有効であるとの認識、ないし有効であるとしてもその適期がオーエンス分類の活動期の何期かという点の認識は、眼科医の一般的医療水準を形成していたとは到底いえない。

まして、一般の産婦人科医師は、光凝固法の存在及びその有効性についての知見を有しない者の方がむしろ多数であつた。

ところで、光凝固手術と結びついた、手術の適期発見のための眼底検査は、被告病院の存する愛知県についていえば、名鉄病院、名古屋大学附属病院のように、光凝固手術を実施していた総合病院では、当時既に施行されており、現に、被告病院でも、昭和四五年ごろから実施していたのであるが、その実施態様をみると、定期的に眼底検査を実施している医療機関と、未熟児を保育器から出せる状態になつたとき、産科の依頼で眼科医師が産科に出向いて眼底検査する医療機関とがあり、名古屋大学医学部附属病院は、後者の方法が慣行であつた(定期的眼底検査を実施している名鉄病院、名古屋市立大学病院も、その実施時期は、昭和四五年ごろからである)。

被告病院では、当時、未熟児の保育管理を始めてから一年足らずで、定期的眼底検査に必要な設備、器具が十分でなく、産婦人科担当の浅井医師が、未熟児を保育器から取り出せる状態になつて、始めて、眼科外来診察室の暗室に未熟児を連れ出し、週一回木曜日午後に来院する非常勤の嘱託医新美医師により眼底検査を受ける慣行であつた。右慣行は、被告病院の設備、保育態勢及び名古屋地区における他病院の眼底検査の前記実施態様に照らし、当時の医療水準を下廻るものとは認められない。

浅井医師は、光凝固手術のための早期における眼底検査実施の必要性は認識していたものの、光凝固手術の適期についての認識は有しておらず、そのため、従来の慣行に従い、原告ゆみ出生後八三日目の四月二八日(水曜日)に保育器から取り出し、眼科に眼底検査を依頼したこと、右原告ゆみの保育器収容が長期に亘つたことについて医師としての裁量判断に誤りがあつたとは認められないことは前記のとおりである。

もつとも、先に述べた、馬嶋医師発表にかかる本症の大部分が生後一五日から五五日に発生するという臨床例からすれば、原告ゆみの保育器収容が八三日に亘つたことが、適期を失わしめた一因となつていることは、結果論としては明らかであるが、浅井医師の当時の光凝固法についての知見の程度ないし、光凝固手術の適期発見のための眼底検査の必要性についての知見の程度が、当時の産婦人科医師の医療水準に照らし、平均的産科医師の知見の程度をこえていると認められこそすれ、これより下廻つていたと認めることは到底できない(<証拠>によれば、国立名古屋病院産婦人科医師は、昭和四七年に田辺医師の説明により始めて右眼底検査の必要性を認識したことが認められる)と解される以上、右結果論からして、浅井医師を責むるわけにはいかない道理である。

以上のとおり、浅井医師の右知見の程度と、当時における眼底検査実施の前記慣行及び、浅井医師が、原告ゆみの保育器収容期間について判断の誤りがあつたとはいえないこと等を総合すれば、浅井医師の原告ゆみに対しとつた前記一連の各措置に、当時における産婦人科医師としての注意義務に欠けるところありと解することはできない。

また、被告病院眼科において、眼底検査を実施できるものは、新美医師の属する名古屋大学附属病院では、定期的眼底検査を実施していなかつたのであるから、同医師が、被告病院嘱託医として、同病院産婦人科医師に定期的眼底検査の勧告をしなかつたからといつて、同医師に過失ありとは言えない。また、同医師が非常勤の嘱託医であつたことをもつて、被告病院の配置に過失があつたと目することのできないことは多言を要しない。また、被告病院における眼底検査の方法の前記慣行も当時の医療水準に照らして考えれば、総合病院たる被告の各科担当医の協力義務に欠けるものと認めることもできない。

第三結論

以上の次第であるから、被告病院の履行補助者である浅井医師らに過失ありと認められず、被告には、原告らとの間に結ばれた準委任契約上の債務不履行責任ないし不法行為責任があるとは認められないから、これあることを前提とする原告らの本訴請求は、その余の点につき判断するまでもなく、理由がな<い。>

(松本武 浜崎浩一 山川悦男)

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